はじめに

天文学は観察の学問である。有史以前から人々は空を見上げ,大宇宙の中で繰り広げられているであろう壮大な森羅万象に思いを馳せて来た。と言うよりも,宇宙に対する人間の存在があまりにも小さすぎ,思いを馳せる以外に採るべき方法がなかったのである。星々は遥かに遠く,誰の手にも届かない場所にあった。

近代になり,物理学や化学においては実験という手法が打ち立てられて盛んに行われるようになり,新事実の発見や法則の確立に決定的な役割りを果たして来た。然るにこの状況においても,やはり天文学は空を見上げることがすべての学問であったと言って良い。もちろん,望遠鏡や観測機器を作製するための実験ならあり得るし,実際になされても来た。

だが,宇宙の空間スケールと時間スケールはどうしようもなく大きく,研究者が実験室の中で好き勝手に星を作ってみたり,ブラックホールに飛び込んだらどうなるのかを自分の体で感じたりすることはできないのである。とりわけ,天文現象の時間スケールは人間生活の時間スケールに対して比べようもなく長いので,観測される現象はほとんどの場合に我々から見ると時間的に静止しているように見えてしまう。

我々は様々な観測データを眺め,それらを矛盾なく説明する物理的シナリオを考案して,星や銀河の進化や現状を頭の中で推測するしかない。自らの手で原寸大の実験を行うことができる物理学や化学とは異なり,天文学は実に受動的な発展を余儀なくされてきた。天文学とはそもそもそういう学問である。

そして,いわゆる通常の意味での実験が不可能なこの分野においては,計算機を使用した数値計算が現象の境界条件や初期条件を人間が制御しながら検証できる唯一の実験的手法なのである。この意味で,天文学における数値実験の意義は他のどの分野においてよりも格段に重いと言えよう。


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